以前、「会計=うんこ説」なんて記事を書かせていただきました。
ということで、
上記の記事でいろいろ書かせてもらいましたが、今回は「うんこ遊び=会計を数字(量)だけで追うと、あなたの経済はつまらなくなるよ」のお話をさせていただこうと思います。
量だけ会計=うんこ遊びしてませんか?
クライアントのよく聞く悩みとして、
「計画数値ありきの仕事がつまらない」
なんて話はよく聞きます。
計画数値ありき=これくらいの量を出さねば!
という話ですね。
それはツラいですよね。
だってさ、
「一人あたり1kgのウンコを毎日出しましょう」
なんて言われてたとします。
すると、まじめな部下が計算するわけですよ・・・
「部長!我々のウンコの平均歩留まりが10%なので、毎日食事を10kgとれば・・・1日1kg出ます!」
一体誰が10kgも食えるというのか・・・
それは地獄の始まりである。
お前の上司は伝統的な限界効用曲線止まり
しかも残念なお話がある。
実は、上司が求めた量を市場自体が望んでいない可能性は非常に高いんだ。
少し経済のお話をしましょう。
限界効用曲線という伝統的なお話がある。
限界効用曲線
ミクロ経済学とかで、こんな図をみたことがないだろうか?
縦軸に効用(=満足度)、横軸に数量をあらわしたこの図。
結局なにがいいたいのか?というと、
ある一つの財やサービスは消費が増えるにつれて、1個追加で消費したときの満足度が減少していくということだ。
例えるなら、
「1人1食も食べられない人は、1回の食事に必死になる。だけど、一日3食で生活できている人が4食目も食べたい!となる可能性は低いよね」
という感じだ。
それをもとに1874年にはレオン・ワルラスさんという経済学者が「一般均衡理論」という理論を提唱した。
消費者は自分の「効用(満足度)」を最大化するために、生産者は「利益(効用)」を最大化するために、すべてのサービス・財の需要と供給が決まる。
と、小難しい話を引っ張りだしてしまいましたが、何がいいたいかというと、
「同じようなサービスで人の満足度も高められない状況で、量を増やし続けることは、その計画自体が不合理だよね。」
ってことです。
この議論は「限界革命」と呼ばれていて、1870年代に主流になった議論。
なので、無理な中期計画をたてている上司がいたら、
「部長1870年代で止まってますよ」
と助言をしてあげたいところだね。(逆ギレされるかもしれないけど・・・)
限界効用曲線だと経済がつまらない
もう一回、限界効用曲線の図を見てみようか。
この効用=満足度が頭打ちになっていくグラフ。
なんかもうみていてツラいね。
極端に解釈すると、まるで、人の満足度には頭打ちがあるようではないか。
「お前の住んでる経済つまらないよ」
といわれているみたい。
まぁ実際は、いろんな効用をスライドさせながら、頭打ちがないように人は動くんだけど。
でも、「量だけを追うことには限界がある」と数式にいわれている気がしてならない。
横軸変えて面白い経済曲線つくろうぜ!
いやはや、鬱々とした気持ちになってきたね。
なんだか、このままでは終わりたくないよね。
と思ったので、量の限界を超えるための曲線グラフを考えてみました。
先述の部長もそうだけど、”数字=量”に囚われると人生がつまらなくなります。
だったら横軸の”数量”を変えてあげれば良いわけです。
そうやってできるのが・・・
名付けて「意味的(限界突破)効用曲線」!どー-ん
たぶん、こういう感じだと思うのよね。
高度経済成長をとげ、多くの人が毎日3食生活が当たり前になり、いろんな財・サービスがコモディティ化する中で、僕らが求めているものって「意味」だと思うんだよ。
新しい意味、新しい価値観。
ちょっと違うか。それは僕らが知らないだけで古来から存在する意味かもしれない。
そういう意味では、より高度で普遍的な意味。
その意味の深度を僕たちは求めていんじゃないかな?
その意味を作り出すことが難しくて、あきらめて安直に”量”に走る人も多いと思うけど。
でも、あきらめるのは早いと思う。だって、それはただの「学び不足」だからである。
たとえ、”量”に走っても、いつか立ち止まったときに、あなたはきっと”意味”を求め始めるはずだから。
”意味”を創り出すことに取り組むことは「急がば回れ」な戦法だと思うんだよ。
その点でいうと、最近の若者が仕事選びの基準に”働き甲斐”をあげる方が多いらしいのだけど、それはとても納得できることだし、応援したいよね。
彼らの方が古臭い価値観よりも、今の時代を敏感に察知しているような気もするんだ。
そんなこんなで、問いかけたいのは・・・
あなたはどんな意味を生み出す?
「あなたはどんな意味を生み出す?」
ってことだ。
「何のために生きたい?」
と言い換えてもいいね。
やっぱりこればっかりは、一人一人生み出したい”意味”が生まれながらに違うと思うんだよね。
壮大な意味を描く人もいれば、小さくても大切な意味を描く人もいるかもしれない。
そこもやはり”量的”なものではなく、大きいも小さいも色々あってよくて、それが重なり合うからこそ、人生は色とりどり面白くなると思うんだよね。
そして、実はその方が経済も強くなると思う。
そして、お城の石垣(特に熊本城)とかを思い浮かべて欲しいんだけど、大小の石がバランスをとることで、すごく屈強な城壁が完成しているよね。
強くて大きい石はもちろん、小さな石も隙間を補強し合うことで、あの強固さは実現されていると思う。
だからこそ、僕たちはまず、「自分自身の等身大の意味を認め」「他者のあるがままの意味を受容し」「相互の意味を織りなすチームワーク」を身につける必要があると思うんだ。
それが基礎教養にでもなるとするなら、経済は楽しくなると思わないかい?
凸凹ながら、しっくりする取引ができるなら、互いに尊重し合う満足度の高い経済になりそうじゃない?
量的経済から意味的経済への転換へ。
そのとき、僕らの効用は限界を突破する!
・・・はずと思っている。
だから、縄文会計では、縄文的経済を意味=人生=過去のトレードと定義したいw
さぁ意味のあることにお金を使わない?
まずは等身大の自分を深堀するためにお金を使うのがおススメだよ!
自分を知り、互いを認めたその先で。
生きててよかったといえる時間と空間を共につくれる経済にしたいね。
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